2015年度アジア研究教育ユニット第3回学際融合コロキアム

2015年度アジア研究教育ユニット第3回学際融合コロキアムの風景

報告者: 茶園敏美(KUASU研究員)
     猪股祐介(KUASU研究員)
発表題目: 性暴力を研究するポジショナリティ
場所: KUASU多目的室
参加者: 9名

今回の報告者は2名、占領期沖縄での米軍の性病対策を研究する茶園氏が第1報告、満洲移民女性の強姦被害を研究する猪股氏が第2報告を行った。

第1報告「パンパンと表象されるおんなたちを語るわたしのポジショナリティ」では、まず研究の概要説明があり、パンパン(売春婦)への強制的性病検診の研究に取り組むことになった動機、そしてその研究開始の経緯、関連領域の他の研究者たちの反応などについて報告された。

パンパン(またはそう見なされた女性)たちへの性暴力被害が明らかにされず、ゆえに尊厳の回復が未だほとんどなされていないこと、そして研究対象とすることの困難のどちらもパンパンへ向けられる「まなざし」が大きく関わっている。性暴力の被害者が、売春行為が強制であったか自発的であったかで切り分けられてしまうこと、それ自体がパンパン(またはそう見なされた女性)たちへの差別的なまなざしである。報告者自身に向けられた「まなざし」の体験と、そのような「まなざし」を生み出し、性暴力被害者が声を上げることを抑圧する状況は現在も続いており、報告者は「(パンパンは)私だったかもしれない」という「当事者」としてのポジショナリティを提示されている。質疑応答では、事実確認やパンパンを巡る過去と現在の状況に関する意見が交わされた。

第2報告「満州引揚時の戦時性暴力に対するポジショナリティ」では、満州引き揚げ時に関する説明から始まり、聞き取り調査とその内容、その語りについての考察と研究者としてのポジショナリティについて報告された。

強姦被害者もその関係者も語れない状況、そのひとつに加害/被害の構造がある。「日本人」は侵略者側、つまり加害者であることが、性暴力被害者に沈黙を強いる。そして性暴力の直接の加害者でなくとも、その暴力に加担した日本人男性の加害者性を暴き出してしまうことがさらに沈黙に拍車をかけることになる。90年代以降、慰安婦問題が取り上げられることにより、日本人女性の被害体験を語る可能性も出てきた。しかし、その時にも侵略戦争における侵略側=加害者側の国民と侵略される側=被害者の国民という立場の違いは存在し、ナショナリズムや「日本人」としての加害/被害の語りの構造によって歪められてしまう恐れがあることが指摘された。そのような語りの構造の中で、「日本人」「男性」としてやはり「当事者」であるという報告者のポジショナリティについて述べられた。

質疑応答では、聞き取り調査の経緯や方法に関する質問や、安易なナショナリズムに回収されかねない危険性などについての意見が出た。被害者が語り始める状況についての報告者の回答は語りの一般化ということと関わっていると思われ、非常に興味深かった。

「性」について語ること自体が、気恥ずかしさやある種の後ろめたさを伴う。「わいせつ」表現を規定する背景に「性行為非公然性」の原則があるように、公の場や人前で話してはいけない事、つまり極めて私的な領域であるがゆえに、語ることそのものがタブー視されている。しかし、そのような語りの「封じ込め」はリプロダクティブヘルスが損なわれた状態であろうし、また、尊厳の回復を阻害することとなる。もちろん、あけすけに全てを語ることが良いということではない。だからこそ、研究者は自身の立ち位置をきちんと把握した上で、記述や公開の方法なども慎重に行わなくてはならないということだろう。

今回、2報告が行われたことによって、加害-被害構造という枠からこぼれおちている当事者性と、加害-被害を規定する語り(言説)の構造からやはりこぼれおちてしまう当事者性のような重層性がより強く感じられたように思う。研究者のポジショナリティの問題は、歴史学やジェンダー研究など社会科学で顕著になることは確かだ。しかし、あらゆる分野で「誰・何に向けて」「何の為に」「どういった立場から」研究するのかは問われるだろう。自身の研究についても問い直すきっかけとなる、非常に有意義な機会であった。

文責:一宮真佐子(KUASU研究員)

 

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